アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その72 産業革命の黎明期

Last Updated on 2025年3月23日 by 成田滋

経済、社会、文化の歴史を相互に切り離すことはできません。アメリカの「工場システム」の創設は、将来への期待、移民に対する一般的な寛容さ、労働力の不足に関連する豊富な資源、イノベーションに対する前向きな考えなど、いくつかの特徴的なアメリカの国力における相互作用の結果でした。

 たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学(University of RhodeIsland)の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。

 イギリスで使用され始めていた紡績と織機は、厳重に輸出が禁じられていました。やがて、必要な機械の設計についての驚異的な記憶に残した若いイギリスの機械工であるサミュエル・スレーター(Samuel Slater)は、1790年にアメリカに移住してきます。そしてブラウンの野心と彼の機械への関心に気づきます。スレーターはブラウンや他の人々とパートナーシップを結び、重要な設備を再現し、ロードアイランド(RhodeIsland) に大きな織物工場を建設しました。

 時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けます。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助は、大規模ではありませんでしたがアメリカの産業化にとって重要でした。

 1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したのがフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) です。その町は後に彼にちなんでローウェルと名付けられます。父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。

 彼らの道徳的行動は婦人によって監督され、彼ら自身が宗教的、劇的、音楽的、そして学習グループを組織しました。こうしたアイデアは、イギリスやヨーロッパの他の場所の惨めなプロレタリアとは全く異なり、アメリカの新しい労働力となっていきました。

 ローウェルの繊維工場は、国内外から視察にくる訪問者を驚かせました。やがて、業界内の競争力がより大きな作業負荷、長時間労働、低賃金によって、当初のようなの牧歌的な性格を失っていきました。1840年代から1850年代には、ヤンキーの若い女性が当初のような組合を結成してストライキを起こすと、彼らはフランス系カナダ人とアイルランド人の移民に取って代わられます。それでも、初期のニューイングランドにおける産業主義は、アメリカの例外主義(American exceptionalism)を意識したものとなりました。

 アメリカの例外主義とは、「合衆国がその国是、歴史的進化あるいは特色ある政治制度と宗教制度の故に、他の先進国とは質的に異なっているという信条として歴史の中で使われてきた概念」といわれます。フランシス・ローウェルはイギリスを訪問した際、新しい繊維産業を学んだようです。時には変装して、イギリスの多くの工場を訪れ、織機の図面やモデルを記憶に留めていたといわれます。

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